日本演劇協会の沿革
大正9年(1920年)、菊池寛・山本有三の両氏を中心として組織された「劇作家協会」をその母体とし、昭和16年(1941年)、久保田万太郎・高田保を中軸に「(第一次)日本演劇協会」が設立された。しかし、終戦と同時に解散、翌昭和21年(1946年)新たに「劇作家組合」として立ち直り、その後、昭和26年(1951年)4月、「(第二次)日本演劇協会」と改称し、劇界の立場を確立した。昭和28年(1953年)12月、法人として許可され、社団法人として我が国劇界の発展に寄与する。初代会長に久保田万太郎が就任。昭和38年(1963年)急逝に伴い、当時専務理事であった北條秀司が昭和39年4月の定時総会で二代目会長に選出され、平成5年(1993年)7月までの30年間を務める。同年8月、三代目会長に河竹登志夫が選出され就任。平成19年3月までの14年間を務める。同年4月の臨時総会で四代目会長に植田紳爾が選出され就任、現在に至る。また、平成25年4月からは公益社団法人として活動を続ける。
当協会が昭和26年(1951年)4月18日創立された経緯について前北條秀司会長は、創立3周年第1回演劇人祭のパンフレットで次のように要記して述べています ─ 。
「私たちがまだほんの劇作家の卵であった頃、山本有三の『女親』事件というのが新聞の上で大きく報道された。なんでも帝国劇場で大倉翁の古稀か何かの祝いがあり、その日に限り上演中の『女親』に無断改訂があったというのだが、作者である山本有三を痛憤させた。劇作家協会の会員全体が一丸となってそれに抗議し、遂に主催者側を謝罪せしめたという事件であった。わたしが劇作家協会というものの存在を知ったのはその事件によってであった。おそらく社会が協会の存在理由を知ったのもその時ではなかったろうか。劇作家協会は上演料の算定方法等に就ても慎重な研究を続けていたようである。後年わたしたちが協会を運営する事になってからも、当時の劇作家協会から学ぶ事がすこぶる多かった。
劇作家協会はその後姉妹団体の小説家協会と合体して、文芸家協会という組織を形成した。
日中戦争がはじまって間なしに、久保田万太郎や亡き高田保等が主唱して、日本演劇協会が誕生した。これには劇作家のみならず演出家、装置家、照明家等舞台芸術に於けるあらゆる分野が編入された。
(中略)
終戦とともに大部分の文化団体が自然的解消を余儀なくされたが、やがてわたし達は劇作家組合なる呼称の下に立直った。組織も拡大されて、新劇、大劇場演劇の他に、新しく中小大衆劇場の演劇人達をも迎入れ、戦後劇壇の諸種の困難な問題を一つ一つ処理しながら、どうにか焦土の上に往年の舞台芸術をふたたび花開かせることに成功した。その数年間はいまから考えて、協会の歴史の上で一等困苦に充ちた時代だったと思う。
昭和26年4月、劇作家組合は再び日本演劇協会の名に還った。今度はその部門に、評論部、ラジオ部、劇団経営、制作者部門等の部門が加わった。文字通り全日本の演劇人の結集が茲に確立したのである。
(中略)
わたし達は協会によって、縦には日本の演劇文化を進展せしめ、横には演劇人各個の生活を向上せしめようと企図している。…」
このような経緯をへて日本演劇協会は昭和26年(1951年)4月18日、午後1時から国会図書館エジプトの間に於て、演劇界の有志60余名が参集し、定款審議、会長、役員の選任が行われ、ここに全演劇人の総結集、四部会構成の日本演劇協会が創立されました。そして以下の錚々たるメンバーが役員等にその名を連ね、日本の演劇界の新たな歴史が開始されたのです。
顧 問:青山杉作 秋田雨雀 大谷竹次郎 岡田八千代 折口信夫 河竹繁俊 鏑木清方
岸田國士 久米正雄 小宮豊隆 里見ク 辰野隆 高橋誠一郎 高安六郎 土方与志
谷崎潤一郎 新関良三 長谷川伸 古垣鉄郎 正宗白鳥 武者小路実篤 安田靱彦
会 長:久保田万太郎
専務理事:北條秀司 (劇作部長兼務)
常務理事:菅原卓(演出部長) 北村喜八(評論部長) 吉田謙吉(美術部長)
阿木翁介 安藤鶴夫 金貝省三 千田是也 知切光蔵 吉川義雄
理 事:秋月桂太 穴沢喜美男 秋山安三郎 伊馬春部 戌井市郎 内村直也 遠藤慎吾
大江良太郎 小沢不二夫 岡倉士郎 宇野信夫 北川勇 佐々木孝丸 斉藤豊吉
利倉幸一 遠山静雄 木下順二 久住良三 河野国夫 杉山誠 東郷静男
竹越和夫 土方正巳 真船豊 三林亮太郎 水木洋子 羽田義郎 村上元三
八木隆一郎 山田肇
監 事:菊田一夫 戸坂康二
評 議 員:渥美清太郎 木村荘八 守随憲治 伊藤熹朔 金子洋文 川口松太郎 関口次郎
高田保 南江治郎 中井正一 土方与志 三宅周太郎 本山荻舟 山本修二